すらいむのひとりごと

童貞のオタクがお送りする群像劇スペクタクル

あの家の夕飯は焼き魚

こんにちは、すらいむです。

タイトルの通り、事象としては「あの家の夕飯は焼き魚」なんです。

ただそれだけなんだけど、ただそれだけのことに対してなにか言いたいことがあったのでこれを書いています。

ことの発端は夕方、もう6時は過ぎていたんでしょうか、僕は家に帰るために自転車にのってました。ちなみに電チャリです。ワイが毎日乗り回してそろそろ4年目に突入しようかという相棒なんですけど。電チャリ初めて乗るときってある種の感動がありますよね。「チャリなのにほぼ勝手に進むじゃんすごすぎ!」とこの前電チャリデビューをした友人が嬉しそうに言ってました。ほんと原付となにが違うんだ位な感じで歩道をゆうゆう走れますからね。僕は電チャリでそいつに先輩ヅラしときましたけどね。

そんな電チャリもとい相棒に乗りながらわがおうちに向かっていった時だったんですけど、そんなときある道を通ったんですね。ある道っていうのはもちろん僕なんかは鮮明に描写することが可能な場所ですけどそんなことしたら住所開示に等しいので伏せさせていただきます。そんなある道を通っていた時、ふっと魚を焼いてるあの匂いがしたんですね。みなさん誰もが想像できるであろうあの焼き魚の匂いです。

僕のお腹がすいていたのもあったのでしょう。おいしそうだな、いい匂いだなという比較的一般的な見解を示しました。独り言ではなく頭の中で。

ただ、もうひとう思ったのは「こんなにおいが家から流れてきたのはいつぶりだろうか」ということです。かなり久しぶりな気がしました。まあ、僕がこの一年間受験によって人と全く交差しない生活サイクルを営んでいた可能性もあるのでしょう。とはいえ、このご時世、もしかしたらある意図を持って減らされている可能性もあるのではないかと思いました。

最近、「苦情」という言葉をよく耳にします。最近といっても僕はまだ成人もしていないので実際は子供のころからあったんですけど。僕の学校にも「苦情」の電話はよく入ってきて、そのつど生徒へ伝達をされています。

「苦情」と言えば、なんかそいつがわがまま言っているみたいなイメージを少し含有しているような気もしますけど、言い方を変えれば「個人が有するべき権利の主張」にもなるのではないかと思っています。そう聞いてみればそんな声も無下にはできないなという気にもなります。

このような「苦情」ーまあ「権利主張」と呼んでもいいんですけど苦情のほうが短くて言いやすいのでこっちを使いますけどーというのは僕の見解としては「個人意識の向上」なんだと思います。

個人意識というものが何かということについて書いてみたいと思います。

例えば、あなたの地域、職場、あるいは学校のクラスでもいいかもしれません。そのコミュニティ内で何かイベントをするのであなたに手伝ってほしいといわれました。しかし、その日はあなたの休日でショッピングなど何か予定していたものが、または休日を謳歌しようと思っていました。さあ、あなたはどっちを選びますか?という問いがあったときに「自分の休日を優先するから手伝わない」という人はいわゆる個人意識の強い人です。というより僕はそうだと理解しています。反対に「それなら仕方ない、休日返上で手伝ってあげなきゃ」という人は集団意識が強い人なんだと思います。

そしてここ、日本という国は古来はその集団意識の強い国でした。そして、個人意識はどちらかといえば西洋的な発想です。これは僕が考えたというよりは日本の教育方針にのっとった勉強をした結果生まれた観念なのでこの前提が間違っているといいたい人は僕ではなく、日本国の教育方針を批判してください。

そしてその西洋を中心にした個人意識重視の発想が最近日本に定着しつつあります。最近といってももちろんここ30年くらいもそうですし、明治維新とか文明開化とかの時代から進んでるんですね。福沢諭吉とかが西洋の思想をがんばって漢字で表したりした結果ということですね。僕は世界史だったのでその辺の人名はよくわからないですけど。ところで”権利”という言葉自体もその時作られた言葉らしいですよ。諸説あるかもしれないので保証はできないですけど飲み会の一ネタくらいにはなるんじゃないですかね。そんな飲み会ないか。

その個人意識ですが、最近で顕著なのはまさに「働き方改革」だったり、NHKの実践ビジネス英会話2月号のネタにもなってた「Job-hopping」とかが当てはまりますよね。だって昔は「年功序列、会社に骨を埋めることこそ美徳!」みたいな感じだったわけじゃないですか。それが今は「キャリアアップのために職を転々とするのが常識、プライベートを充実させよう!」みたいな時代になったわけですから、明治からずっと変わり続けてるとはいえまだまだ変革の途中というわけですよね。

というわけで最近は「苦情」だとか「隣人トラブル」だとか「モンスターペアレント」だとか、そんな最近増えてきている問題というのはこの大きな思想の変化にすべてつながっているのではないかと思います。

しかしそんな古来から集団意識が根付いた国ですから、ほんの100年で完全に個人意識に移行することはできません。だから今はまさに過渡的な時代にいるというわけなんですね。例えば、アメリカは民事訴訟が毎日とんでもない数起きているというのは有名な話ですが、じゃあ日本ではおびただしい数の裁判が行われるようになったかと聞かれればもちろんそうではないと思います。確かに最近は「訴えてやる!」なんて言葉をよく使いがちかもしれませんが、それで訴えた人がどれだけいるかと聞かれたら目を伏せざるを得ません。統計を調べたわけではないので裏付けがあるわけではないですが、少なくとも日常生活を営んでいるうえではそう感じます。また、日本の小学校とかでの教育ではまだまだ集団意識を重視したカリキュラムが組まれているのではないでしょうか。つまり現在の日本という国では個人意識と権利意識のせめぎあいが続いているということです。それが現在の上司と部下の関係だったり、隣人同士の関係などに具現化されているのだと思います。

思想の転換というものはとても時間がかかります。信じられていた天動説が地動説に塗り替えられた、いわゆるコペルニクス的転回だって一瞬ですべての人が地動説を信じ始めたわけではありません。しかも、今この2020年においても天動説を信じ続けている人だっています。時間がかかる上に完全に書き換えることなんて不可能なんです。だからトラブルだって絶えません。大きな規模の話にしてみれば戦争だっておそらく同じように起きていて、全人類の思想が共通になるまで絶えないのだと思います。もちろん改善の余地はいくらでもあると思います、防ごうという取り組みが無駄だと言っているわけではありません。ただ、根本の解決をすることができないということです。しかし、思想がそれぞれ違うから人間は人間なのであって、もし思想が全人類同じになったならばそんなものは人間という動物ではなく別の何かなのでしょう。他人と、異文化と、異国と交流するということはそういうことなのです。

何の話かといえば僕がチャリに乗っていた話ですよね。

僕はその道を通ってそのにおいをかいだ時、おいしそうだな、この感じいいな、といったふわっとはしているけれど「プラス」の感情を抱きました。でも世の中には魚が嫌いな人だっていますし、もしかしたら、お腹すいてるときにこんなにおい流すなんてテロだ!、なんていう人だっていないとは言い切れません。つまり「マイナス」の感情を抱く人だっていますよね。このご時世、その家に「苦情」が入る可能性だってあります。そうしたらおそらくそのお宅では今後焼き魚を焼かなくなるのでしょう。そうなったら僕は二度とあの道で焼き魚の匂いを夕方の帰り道でかぎながらなんともいえない心地の良い気持ちになることはできないんですね。でもその権利の主張が悪いわけじゃないんです。個人の利益を追求することで現在我々が暮らすことのできている資本主義社会が生まれてくる訳ですから。しかも僕だって権利の主張はしたいですよ。ブラック企業にはいきたくないしプライベートを充実させたいし、隣人がうるさいのもいやです。

結局、人間ってわがままな生き物なんですよね。

でもやっぱりあの焼き魚の匂いかげなくなるのは嫌だなあ...

 

それだけのお話でした。読んでくれてありがとう。