すらいむのひとりごと

童貞のオタクがお送りする群像劇スペクタクル

【仮説】人間と人間が入れ替わったときそこには何が起こっているのか

私は、今までの人生において、最も佳境に差し掛かっている。

人間としての尊厳を極限まで捨て、自らの実存を限界まで失わせながら、己のプライドを満足させるが為にのみ異国の言語に触れ続け、他人の思考を読み解き、人類の歴史をなぞり続けている。そのような生活の中で、私の思考は洗練されていき、非常に崇高なものになっている。この生活が終われば、おそらく私の体と脳は世俗へと帰り、この洗練された思考というものは失われてしまうに違いない。だから私は、これが失われてしまう前にその中身を文章にして、半永久的に記録され続けるインターネットの海に漂わせておこうと思った。誰かの目に触れようが触れまいがかまわない。ただ、月日が経ったのちに再び私がこの文章を読み、自分が通ってきた道を振り返り、笑いたいのみである。

 

 

さて、本題に入ろう。もし人間が人間と入れ替わることが可能であったとして、その場合その人間の体には何が起こっているのか。それについて私は考え、ある説へと至った。それをみなさんに紹介したい。

まず、前提として、「人間の記憶を包括的にコピーし、別の何かへと移植することが可能である」とする。そしてもうひとつ、「人間に魂は存在しない」とする。どうか、人間の感情は脳細胞間の単なる電子のやり取りに過ぎないと考えている純然たる唯物論者ねなりきってほしい。

 

では、いよいよ中身を入れ替えよう。ここでは人間Aと人間Bを用意する。そして、ここでは人間Aを主体(=私)として話を進めていく。

 

AとBの記憶のコピーが取られ、同時にAの体にBに記憶を、Bの体にAの記憶を入れた。すると、私の体の記憶はBのものへと切り替わる。つまり、私は今、私の記憶を失い、Bの記憶をもった存在として降臨する。Bの体でも同様のことが起こっている。

 

私は今Bの記憶を持っている。つまりBとしてAの体で生きていることになる。ここで、果たしてBの意識は私の体で継続しているのだろうか。また、私は確かに私としてBの中で意識をもっているのだろうか。そんなことはない。私は今Bの記憶を埋め込まれ、自分が今までBの体でBとして生きてきたという”錯覚”をもって私の体で生きているのだ。逆もまたそうである。現在のBの中で意識を持っている私の意識は私のものではない。それは単なるBの錯覚に過ぎず、本質的な私は結局私の中にとどまったままなのである。

 

では、ここで再び記憶をコピーし、元の体へ戻すとする。

そして戻ってきた私の記憶は不運にもBの中にいた記憶をも包含したものとなって私のもとへ戻ってくる。つまり、実際には意識が交換されたわけではないのにもかかわらず、私は実際に意識が交換されたという記憶を植え付けられ、実際に交換された錯覚へと陥るのだ。

 

仮にここが実験室であったとして、そのような錯覚を抱いた私とBは間違いなく「実験は成功した」と高らかに宣言するのだ。そして傍観者たちも、一連の行為を見て同じ感想を抱く。

 

だが、意識の交換など決して起こらない。起こりえないのだ。

 

このようことを踏まえると、自分と同じ記憶をもったクローンあるいはロボットを作ることが可能となる。

 

自分と同じ記憶をインストールされたロボットはまるで自分がかつてから生きているかのように錯覚する。だがそれは虚構に過ぎない。そして、決して意識の統合も起こらない。どこかで分界された私という存在が2人生きるのみである。そしてどちらが本物であるかもわからない。調べようがないのだ。

唯物論者としては屈辱的であろうが、まさに、「神のみぞ知る」のである。

 

では、自分の体をよく見てほしい。

 

あなたは本物だろうか?それとも,,,

 

実存というものは案外もろいものなのかもしれない。